Physics & Philosophies

理系大学生の頭の中

【ロシア語】で「〜をください」は?

今日から外国語学習日記を開始.

水曜日なので,今日はロシア語.

 

もしかしたら3月にロシアに行くことになるかもしれないので,まずは旅行会話から覚えたい.

 

使っているのは中経出版の『ロシア語が面白いほど身につく本』

 

新装版 CD付ロシア語が面白いほど身につく本 (語学入門の入門シリーズ)

新装版 CD付ロシア語が面白いほど身につく本 (語学入門の入門シリーズ)

 

 

2011年にカラー版が出たらしく,最近書店に行ったらこれよりもっと中身がきれいなバージョンを見つけた.

 

あいさつ,飛行機の中で,レストランで,など,場面に合わせて短い例文がいくつも載っている.

 

やっぱり食べ物から覚えたい!ということで,〈レストランでの会話〉から.

 

Дайте, пожалуйста, ...

(ダーイチェ,パジャールスタ,...)

【...をください】

 

Дайте が Give, пожалуйста が please に相当.

пожалуйста はとても便利な単語で,【〜してください】のようなときにすごく良く出てくる!

 

Дайте, пожалуйста, ... のあとに,好きな単語をつなげればOKなので,あとは単語を覚えよう.

 

【単語】

меню : メニュー

сосиски : ソーセージ(複),単数はсосиска

соль : 塩

сахар : 砂糖

борщ : ボルシチ

пирожки : ピロシキ

мороженое : アイスクリーム

 

ロシア語は名詞が格変化するので,Дайте のあとでは対格に変化させなければならないのだが,ここに挙げた名詞は主格=対格なので,そのまま当てはめればOK.

сосиска は сосиску になる.

 

名詞の格変化はロシア語で非常にややこしいところなので,少しずつ覚えていこう.

7ヶ国語同時習得大作戦

久しぶりの投稿.

 

昔から外国語が好きで,いろいろ手を出していたのだが,

どれもこれも中途半端になっていた.

 

そこで,【7ヶ国語同時習得大作戦】

 

日:タイ語

月:中国語

火:アラビア語

水:ロシア語

木:フランス語

金:スペイン語

土:ラテン語

 

というスケジュールで,各曜日に担当の言語を少しでも学ぶことにする.

 

今日はロシア語から.

はてさて,三日坊主で終わるのか,果たして…?

議論における「勉強」の意義

しばしば、理系の話はよくわからない、と言われる。学生同士で何かテーマを決めてディスカッションしたり、ディベートしたり、スピーチしたりするときでも、小難しい理系の話は嫌われ、逆に教育、人権、国際交流などの社会問題などが好まれる気がする。理系の話題が嫌われ、社会系の話題が好まれる要因の一つには、社会系の話題は普段ニュースなどで聞き知っている話題や単語を扱うのに対して、理系の話には普段からあまりスポットが当たらず、馴染みが薄いことも原因だと思う。

 

社会系の話題が好まれるからといって、それに関する議論が必ずしも意味のあるものになるとは限らない。「現状でこういう問題があるから、このような方針で解決していきましょう」と主張したって、それがそもそも意味のある案なのかはよく吟味する必要がある。

 

理科系の話の例を出すと、いくらエネルギー問題を解決したいからといって永久機関(外部からのエネルギーを必要とせず、ほかっておけば永久に動き続ける装置)は作れない。これが実現すれば熱力学第二法則を破ることになる。いくらこれ以上通信速度を上げたいからといって、情報を光速以上で伝達することはできない。もちろん、熱力学第二法則が絶対に破られないかはわからないし、光速以上で情報を伝達することが実現する可能性はゼロではないのかもしれない。しかし、これまで何十年、何百年と物理を支えてきたこれらの仮定や法則を覆すことを前提として、ある問題を解決する手段を考えるのは現実的と言えるのか。

 

社会系の問題に関しても同じことが言えるのではないか。残念ながら社会系の問題やその背景、理論、考え方に詳しいわけではないので、あくまでも理科系の話からの類推に過ぎないのだが、ある問題を議論しようといったときに、どういった構造でその問題が生じているのか、どういう原理で物事が動いているのかをしっかりと吟味する必要があるだろう。

 

いわゆる「勉強」である。「抽象的」な勉強は、必ずしも「非現実的」なものではない。逆に、我々一人一人では到底経験し尽くせないような膨大な量の「現実」を体系的にまとめてくれるものである。熱力学第二法則も、光速を超えるものがないというのも、数多の実験結果に裏打ちされた事実である。その実験結果を一人の人間がすべて経験することは不可能であるが、「法則」の形でまとめることによって、すべての人がその「経験則」を援用できる。それを学ぶことで、自分で足を運んで自分の目で一つ一つを見るよりもはるかに効率的に「現実」を知ることができる。

 

もちろん、ある問題に関して自分で主体的に行動し、自分の目で見たものから考える姿勢は重要だと思う。だが、それと同様に、その問題の全体像がどのようになっていて、その枠組みの中で自分の考えがどこまで通用するのか、客観的な視点を持つことがもっと重要視されてもよいのではないか。

賢さとは、自分の「言語」を持つこと。

案の定というべきか、やはり毎日は続かなかった。ただ、毎日書かないからといって特に誰が困るわけでもない。あんまり無理を強いると疲れてしまうから、時折ふと思いついたことを書き留める備忘録ていどにしようと思う。

 

夏目漱石の「坊っちゃん」を読み終わった。もともと僕は「日本」よりも「世界」が好きだ。日本史よりも世界史が好きだし、建築物や絵画も西洋のものを美しいと思うし、文学も日本文学よりも外国文学のほうが手に取ることが多い。夏目漱石はいままで「こころ」、「三四郎」を読んだことがあったが、それ以来あまり手を出そうと思わなかった。久しぶりの漱石だった。

 

これまであまり漱石に手を出さなかったことを後悔した。文が軽快で、ぐいぐい引きずりこまれていく。「坊っちゃん」の「親譲りの無鉄砲」な正確が徹頭徹尾描かれていて、読んでいて爽快感がある。登場人物の会話の様子も活き活きとしていて、とても楽しい。これからもいろいろな漱石の作品を読もうと思う。

 

漱石といえば、僕の心に残っている一節に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」(『こころ』)がある。漱石の作品には、知識人がよく出てくる。漱石自身も相当なエリートであった。「賢い」とはなんだろう。「馬鹿」とはなんだろう。

 

ただ単に勉強ができるだけが「賢い」ではないと思う。「賢さ」はあくまで、どのように物事を考えるかであり、勉強によって鍛えられるものは「賢さ」の一部にすぎない。勉強は自然言語や数学の言葉を使って、それらをいかに操れるかを鍛えてくれるが、それはそのような「言語(もしくはツール)」を使って考えているだけである。そのような言語(ツール)を使わない思考も考えられるわけで、例えばスポーツ選手は長年の練習や試合で培った身体感覚で、美術家は自分の腕や目、鼻で、音楽家は耳や皮膚の震えなどの「言語(ツール)」を使って考えているのではないか。とすると、そのように自分の思考を整理できる、自分にあった「言語」を持つ事こそが、「賢い」ということではないか。

理科系の「引用技術」

木下是雄著「理科系の作文技術」(中公新書)を買ってきた。事ある毎に引き合いに出されていた本なので、いつか読んでみようと思っていたのだが、ようやく購入。

 

題名の通り、理科系のレポートや論文などに使えそうな作文技術が載っている。全体の構成といった話はもちろん、単位や量記号の書き方のルールといった細かい話も議論されている。

 

その中に「文献引用」という節がある(9.4節)。科学系の文章を書く以上、先行研究や他の論文から引用したり、それらを参考にして議論を進めることは免れない。もちろん、その出典を明らかにすることも大事なのだが、そのルールが複雑でいまいちわかりにくい。木下氏は次のような例をあげている。

 

1) 高崎 宏:応用物理29(1960) 1054.

2) V. Vand, J. Phys. Colloid Chem., 52, 277 (1948).

3) Lewis, R. and Gomer, R. 1969 Surface Sci. 17, 333.

(木下是雄『理科系の作文技術』中公新書 p.164)

 

(なぜかここではうまく表示されないが、実際には)巻を太字にしたり、雑誌名を斜体にしたり、ややこしい。さらに、「物理、化学の雑誌では、原則として論文題名と〈おわりのページ〉を省く」(木下)そうだが、例えばGoogle Scholarで検索した論文をCiteすると

 

MLA: Watson, James D., and Francis HC Crick. "Molecular structure of nucleic acids." Nature 171.4356 (1953): 737-738.

APA: Watson, J. D., & Crick, F. H. (1953). Molecular structure of nucleic acids. Nature, 171(4356), 737-738.

Chicago: Watson, James D., and Francis HC Crick. "Molecular structure of nucleic acids." Nature 171, no. 4356 (1953): 737-738.

 

と出る。論文題名も書いてあるし、雑誌名も略されていない。

 

各学会毎に規定とか流儀があって、必ずしもこうでなければならないというものではないのだろうが、細かいことが気になる性分なのでレポートの参考文献の項目に細々と気を遣ってしまう。一度スタイルを会得してしまえばそんなに悩むことではないのかもしれないが。

科学を語ること

ずっと物理学を勉強してきて、ものの見方が広がったと感じる。光を見ても、水を見ても、金属を見ても、熱いものや冷たいものに触れても、いろんな音を聞いても、「どうしてそのような現象が起こるのか」について説明してくれる物理的な背景が、ところどころで見えてくるようになってきた。それは、今まで身の回りにあふれていたものたちの秘密が解き明かされたようで、楽しい。今まで身の回りにあふれていたものたちが、違った表情をして見えてくる。

 

ところが、この楽しさを他人に伝えるのはかなり難しい。特に、科学はムズカシイと思っている人に対して伝えるには、いかに科学の醍醐味をわかりやすく伝えるかが重要になる。この「わかりやすく」というところがミソであり、生半可な知識では到達しえない。物理の面白さをわかりやすく、それこそ小学生でもわかるように伝えるには、ものの本質を捉えてはじめてできるのだろう。

 

科学の面白さを語る時、やたらと専門用語を並べ立てるのは賢いものの言い方とは思えない。電子を知らない人に、いかに量子力学の面白さを伝えるか。古典力学を知らない人に、いかに相対論の面白さを伝えるか。「わかりやすさ」には、話し手の知性が表れるのだろう。

『文章の書き方』(辰濃和男著・岩波新書)[1]

『文章の書き方』(辰濃和男著・岩波新書)を読んでいる。このブログを書き始めたのも、文章を書く訓練をしたい、というのがきっかけだったが、ちょうどその時期に買って読み始めた。

 

著者の辰濃氏は1975〜88年の間、朝日新聞の「天声人語」を担当されていた。新聞記者による、タイトル通り「文章の書き方」の本である。とはいっても、このように書くと文章がうまく見えるとか、そういう小手先のテクニックのようなものに終始するのではなく、良い文章とはどのようなものか、どのような心構えで書かれるものか、というように、文章を書くための準備段階から丁寧に書かれている。

 

この本の章立ては次のようになっている。

 

一 〈広場無欲感〉の巻――素材の発見

  広い円

  現場

  無心

  意欲

  関心

二 〈平均遊具品〉の巻――文章の基本

  平明

  均衡

  遊び

  具体性

  品格

三 〈整正新選流〉の巻――表現の工夫

  整える

  正確

  新鮮

  選ぶ

  流れ

 

各巻の五字熟語は、それぞれの項目の漢字一字を取った著者の造語であり、「読む方の頭に残りやすいように、並べ方をちょっと工夫してみただけ」(p. iV)だそうだ。

 

まだ読み終えたわけではないが、読めば読むほど「なるほど」と思えて面白い。例えば二 〈平均遊具品〉の最後である「品格」の章では、内田百閒(百鬼園)が中村武志の著書『埋草随筆』の序文を依頼され、そこで中村に対する戒めの言葉を序文として書いたことが語られている。辰濃氏は百閒先生の忠告は「読者をおもしろがらせようとして、それを意識しすぎるのは邪道ではないか」(p. 165)と要約している。「書きたいことがあって書くのでなくて、なにか読者をおもしろがらせるためにものを加工、ここで笑いをとろう、といった意識が先走ると、文章が下品になる」(p. 166)。本書では一貫して「文は心である」(p. i)ということを軸にしている。本書を読めば読むほど、「文章を書く」ということがいかに難しいか、そして美しい文章がいかに面白いかが実感できる。

 

本書を読んで思うのが、やはり自分の考えを文章にするには、相応の知識や経験が必要だということである。辰濃氏はいろいろな作家の文章を引用したり、彼らの文章観を紹介したりしているが、それらも辰濃氏がそれらの文章を読むという経験を積んでおり、それらが血肉として自分のからだのなかに自然に取り込まれているからこそ自然な引用ができるのだと思う。下手に聞きかじったことについてよそから引用しようとすると、どうしてもちぐはぐな文章になってしまうということは、例えば今この文章を書いている際にも強く感じる。

 

やはり文章を書くということは、自分がどのような者であるかを端的に写しだすのかもしれない。そこでは偽りができない。格好つけようと思っても、どうしても書き手の質が文の節々に表れる。だからこそ「書く」ということは面白いのかもしれない。