Physics & Philosophies

理系大学生の頭の中

議論における「勉強」の意義

しばしば、理系の話はよくわからない、と言われる。学生同士で何かテーマを決めてディスカッションしたり、ディベートしたり、スピーチしたりするときでも、小難しい理系の話は嫌われ、逆に教育、人権、国際交流などの社会問題などが好まれる気がする。理系の話題が嫌われ、社会系の話題が好まれる要因の一つには、社会系の話題は普段ニュースなどで聞き知っている話題や単語を扱うのに対して、理系の話には普段からあまりスポットが当たらず、馴染みが薄いことも原因だと思う。

 

社会系の話題が好まれるからといって、それに関する議論が必ずしも意味のあるものになるとは限らない。「現状でこういう問題があるから、このような方針で解決していきましょう」と主張したって、それがそもそも意味のある案なのかはよく吟味する必要がある。

 

理科系の話の例を出すと、いくらエネルギー問題を解決したいからといって永久機関(外部からのエネルギーを必要とせず、ほかっておけば永久に動き続ける装置)は作れない。これが実現すれば熱力学第二法則を破ることになる。いくらこれ以上通信速度を上げたいからといって、情報を光速以上で伝達することはできない。もちろん、熱力学第二法則が絶対に破られないかはわからないし、光速以上で情報を伝達することが実現する可能性はゼロではないのかもしれない。しかし、これまで何十年、何百年と物理を支えてきたこれらの仮定や法則を覆すことを前提として、ある問題を解決する手段を考えるのは現実的と言えるのか。

 

社会系の問題に関しても同じことが言えるのではないか。残念ながら社会系の問題やその背景、理論、考え方に詳しいわけではないので、あくまでも理科系の話からの類推に過ぎないのだが、ある問題を議論しようといったときに、どういった構造でその問題が生じているのか、どういう原理で物事が動いているのかをしっかりと吟味する必要があるだろう。

 

いわゆる「勉強」である。「抽象的」な勉強は、必ずしも「非現実的」なものではない。逆に、我々一人一人では到底経験し尽くせないような膨大な量の「現実」を体系的にまとめてくれるものである。熱力学第二法則も、光速を超えるものがないというのも、数多の実験結果に裏打ちされた事実である。その実験結果を一人の人間がすべて経験することは不可能であるが、「法則」の形でまとめることによって、すべての人がその「経験則」を援用できる。それを学ぶことで、自分で足を運んで自分の目で一つ一つを見るよりもはるかに効率的に「現実」を知ることができる。

 

もちろん、ある問題に関して自分で主体的に行動し、自分の目で見たものから考える姿勢は重要だと思う。だが、それと同様に、その問題の全体像がどのようになっていて、その枠組みの中で自分の考えがどこまで通用するのか、客観的な視点を持つことがもっと重要視されてもよいのではないか。