Physics & Philosophies

理系大学生の頭の中

賢さとは、自分の「言語」を持つこと。

案の定というべきか、やはり毎日は続かなかった。ただ、毎日書かないからといって特に誰が困るわけでもない。あんまり無理を強いると疲れてしまうから、時折ふと思いついたことを書き留める備忘録ていどにしようと思う。

 

夏目漱石の「坊っちゃん」を読み終わった。もともと僕は「日本」よりも「世界」が好きだ。日本史よりも世界史が好きだし、建築物や絵画も西洋のものを美しいと思うし、文学も日本文学よりも外国文学のほうが手に取ることが多い。夏目漱石はいままで「こころ」、「三四郎」を読んだことがあったが、それ以来あまり手を出そうと思わなかった。久しぶりの漱石だった。

 

これまであまり漱石に手を出さなかったことを後悔した。文が軽快で、ぐいぐい引きずりこまれていく。「坊っちゃん」の「親譲りの無鉄砲」な正確が徹頭徹尾描かれていて、読んでいて爽快感がある。登場人物の会話の様子も活き活きとしていて、とても楽しい。これからもいろいろな漱石の作品を読もうと思う。

 

漱石といえば、僕の心に残っている一節に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」(『こころ』)がある。漱石の作品には、知識人がよく出てくる。漱石自身も相当なエリートであった。「賢い」とはなんだろう。「馬鹿」とはなんだろう。

 

ただ単に勉強ができるだけが「賢い」ではないと思う。「賢さ」はあくまで、どのように物事を考えるかであり、勉強によって鍛えられるものは「賢さ」の一部にすぎない。勉強は自然言語や数学の言葉を使って、それらをいかに操れるかを鍛えてくれるが、それはそのような「言語(もしくはツール)」を使って考えているだけである。そのような言語(ツール)を使わない思考も考えられるわけで、例えばスポーツ選手は長年の練習や試合で培った身体感覚で、美術家は自分の腕や目、鼻で、音楽家は耳や皮膚の震えなどの「言語(ツール)」を使って考えているのではないか。とすると、そのように自分の思考を整理できる、自分にあった「言語」を持つ事こそが、「賢い」ということではないか。