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理系大学生の頭の中

『文章の書き方』(辰濃和男著・岩波新書)[1]

『文章の書き方』(辰濃和男著・岩波新書)を読んでいる。このブログを書き始めたのも、文章を書く訓練をしたい、というのがきっかけだったが、ちょうどその時期に買って読み始めた。

 

著者の辰濃氏は1975〜88年の間、朝日新聞の「天声人語」を担当されていた。新聞記者による、タイトル通り「文章の書き方」の本である。とはいっても、このように書くと文章がうまく見えるとか、そういう小手先のテクニックのようなものに終始するのではなく、良い文章とはどのようなものか、どのような心構えで書かれるものか、というように、文章を書くための準備段階から丁寧に書かれている。

 

この本の章立ては次のようになっている。

 

一 〈広場無欲感〉の巻――素材の発見

  広い円

  現場

  無心

  意欲

  関心

二 〈平均遊具品〉の巻――文章の基本

  平明

  均衡

  遊び

  具体性

  品格

三 〈整正新選流〉の巻――表現の工夫

  整える

  正確

  新鮮

  選ぶ

  流れ

 

各巻の五字熟語は、それぞれの項目の漢字一字を取った著者の造語であり、「読む方の頭に残りやすいように、並べ方をちょっと工夫してみただけ」(p. iV)だそうだ。

 

まだ読み終えたわけではないが、読めば読むほど「なるほど」と思えて面白い。例えば二 〈平均遊具品〉の最後である「品格」の章では、内田百閒(百鬼園)が中村武志の著書『埋草随筆』の序文を依頼され、そこで中村に対する戒めの言葉を序文として書いたことが語られている。辰濃氏は百閒先生の忠告は「読者をおもしろがらせようとして、それを意識しすぎるのは邪道ではないか」(p. 165)と要約している。「書きたいことがあって書くのでなくて、なにか読者をおもしろがらせるためにものを加工、ここで笑いをとろう、といった意識が先走ると、文章が下品になる」(p. 166)。本書では一貫して「文は心である」(p. i)ということを軸にしている。本書を読めば読むほど、「文章を書く」ということがいかに難しいか、そして美しい文章がいかに面白いかが実感できる。

 

本書を読んで思うのが、やはり自分の考えを文章にするには、相応の知識や経験が必要だということである。辰濃氏はいろいろな作家の文章を引用したり、彼らの文章観を紹介したりしているが、それらも辰濃氏がそれらの文章を読むという経験を積んでおり、それらが血肉として自分のからだのなかに自然に取り込まれているからこそ自然な引用ができるのだと思う。下手に聞きかじったことについてよそから引用しようとすると、どうしてもちぐはぐな文章になってしまうということは、例えば今この文章を書いている際にも強く感じる。

 

やはり文章を書くということは、自分がどのような者であるかを端的に写しだすのかもしれない。そこでは偽りができない。格好つけようと思っても、どうしても書き手の質が文の節々に表れる。だからこそ「書く」ということは面白いのかもしれない。